「理解」と「腹落ち」の違い

【12/7(土)今朝の珈琲】
おはようございます。喫茶ふでまめです。
今朝は、巴布亜新几内亜(パプアニューギニア)産の豆を使って珈琲を淹れました。
先日までの座禅を経て、「感謝とか謙虚さってほんま大切やなぁ〜」と腹落ちしました。
というのも、「自分は他者からの施しのもとに生きている」という事実をあらためて認識すると、座禅中の身体の痛みや周囲の物音が気にならなくなり、それまでとは比べ物にならないくらい穏やかな心で自分自身と向き合えたからです
なんか文字で読むとスピリチュアルっぽい香りもするのですが・・・実際にそうだったので、疑いの余地がありません。
この「腹落ちする」という表現は、「その通りだ、と心から納得すること」を指す言葉です。
でも、あらためて考えてみると不思議な感じがします。
納得するのは「心」なのに、なぜ「腹」に落ちるのか?と。
「腹落ち」の対義語っぽい表現として、「頭ではわかってるんやけど・・・」というものがあります。
理解はできているが納得はできていない、みたいなやつです。
座禅中の体験を通じて、この両者の違いは大雑把に言うと以下のような感じなのかな?と思いました。
▼頭で理解している
ある理屈を、情報として処理している状態
→理屈が頭の中に存在している
→重心が上にあり、安定しない
▼腹落ちしている
ある理屈を、自らの実体験を通じて実感している状態
→理屈が食べ物のように咀嚼され、お腹に収まっている
→重心が下にあり、安定する
この観点であらためて見てみると、これまでいかに自分が、頭で理解したことを腹落ちさせずに盲信してしまっていたのかが浮き彫りになった気がしました。
「あたまでっかち」という表現は、言い得て妙だと思います。
全ての物事を腹落ちさせる必要はないと思うのですが、仕事においても私生活においても、「これは大切っぽいぞ!」という理屈に出会った際には、頭での理解に留めるのではなく、自らの実体験を通じて納得することを目指したいなと思いました。
重心が高く浮き足立った生き方よりも、重心が低くどっしり鷹揚に構えた生き方をしたいものです。