お遍路が教えてくれた、自己評価の無意味性
喫茶営業とは関係ないのですが、現在「お遍路日誌の電子書籍化プロジェクト」を進めております。
大学4回生の春休みに四国八十八ヶ所の霊場を歩いて回りながら取っていた日記を、いつでも読み返せるように電子化して、ついでにKindle出版してしまおうという取り組みです。
写真は一切撮らずに歩き続けたのですが、やはり文字を読んでいるだけでも、脳ミソの端っこに転がっていた記憶の断片が瑞々しく蘇る感じがします。
日誌を読み返しながら思ったのは、「どんだけ多くの人たちに助けてもらってんねん」ということです。
お遍路中は、本当にたくさんの方々のお心遣い・お接待に支えていただきました。
四国には、巡礼者のことを「おへんろさん」と呼んでもてなす、「お接待」という文化がある・・・ということは、出発前から知ってはいました。
しかし、見ず知らずの他人である私に対してどうしてここまで親切にしてくれるのだろうかと、当時も疑問に近い感動を覚えていました。
なにせ、私は自分の意思で勝手に四国に来て、ただ単に歩いているだけなのです。
日誌を読み返していて、ふと、お遍路旅は、社会に出る直前の私に人生の縮図を見せてくれていたのかもしれないな・・・と感じました。
つまり、応援してもらったり支援してもらったりといった行為は、完全に相手方の好意によるものだということです。
それを見落として「私が頑張って歩いてるから、お接待してもらえてるんだ」などと勘違いしてしまってはいけない。
ってお遍路の例で言うと当たり前のことのように思えるかもしれないのですが、たとえば仕事において「私が成果を出してるから、会社から評価してもらえてるんだ」とか、人間関係において「私が親切にしているから、あの人も私に優しくしてくれるんだ」というふうに解釈してしまうケースは、けっこうあるような気がします。
そうではなく、成果を出したり親切にしたりするのは、あくまでも自分が勝手にやっていることであり、そこに評価や優しさといった施しをくれるのは、完全に相手の好意によるものだから、常に謙虚でいなければならない。
というか、自分がやっていることは単純に「仕事」や「コミュニケーション」であり、それを「成果が出ている」「親切にしている」と自己評価するのがそもそも傲慢とも言える。
といったことを、お遍路旅の日々は、21歳の私に教えてくれたような気がします。