散歩中に思いついた、「茶目っ気」に関する屁理屈
【3/25(火)今朝の珈琲】
おはようございます。喫茶ふでまめです。
今朝は、跨的馬拉(グアテマラ)産の豆を使って珈琲を淹れました。
朝、散歩しながらブツブツ独り言を言っていると、たまにポっとアイデアが湧いてくることがあります。
今朝はまさにそうでした。
私は「茶目っ気」という言葉が好きです。
そして「三方よしのお商売を実現するには、茶目っ気が大切だ」と思っています。
この自論を補強するためのヒントが、ちょっと思い浮かんだ気がします。
粗削りなのですが、よろしければちょっと読んでいただけますか。
◆
「茶目っ気」とは、まぁざっくり言うとユーモアのことです。
ユーモアとは、遊び心のことです。
遊び心とは、ゆとりのことです。
車のハンドルにゆとりがあることを「アソビがある」と表現することからも、それがわかります。
そして「ゆとり」とは、カッチリ組み込まれたものの間に生まれる余白のことです。
カッチリした要素がなければ、それは「ゆとり」ではなく「たるみ」です。
茶目っ気を発揮してゆとりを生むためには、締めるべきところは締める必要があります。
締めるべきところが締まったうえで生まれる余白は、創造のための余地になりえます。
脇が固まっているからこそ、安心して柔軟な発想ができます。
アタマの中に余白があると、フレッシュなアイデアがどんどん生まれます。
それと同じように、社会に余白ができると、これまでに存在していなかった仕事が、どんどん生まれます。
たとえば江戸時代には、耳掃除を代行する「耳垢取り」や、お偉いさんがオナラをしたときに身代わりとなる「屁負比丘尼(へおいびくに)」という職業が生まれました。
これらはいずれも、戦のない平和な時代、つまり余白のある時代だからこそ誕生した職業だと言えます。
今は人類史上、非常に大きな転換点にあります。
AIがめちゃくちゃ頑張ってくれていることで、「人間の仕事がAIに取られるんじゃないか」的な雰囲気も出つつあります。
ただ、少し引いた視点で見てみると、これは人間にとって好都合だと言えるかもしれません。
AIの台頭は、「カッチリした部分をAIにお願いしたうえで、人間は余白を使ってより豊かに生きていけるんじゃないか」という問題提起だと捉えることも可能だと思うからです。
お商売が「三方よし」の考え方を失ってしまう要因のひとつに「余白がないから」というものがあげられます。
カッチリカッチリを追求しすぎると、どうしても視野が狭くなり、自分の都合しか見えなくなってしまう。
すると、いつのまにか顧客・社会への意識が弱まってしまいます。
余白があると、「いかにして相手を喜ばせるか」というところからお商売を考えられるようになります。
耳垢取りも屁負比丘尼も、「いかにして目の前の人を喜ばせるか」ということにアタマをひねった結果生まれた職業だと思います。
アタマをひねるには、アタマを動かすだけのスペースが必要であり、それこそが余白です。
そしてその余白を生むのは、ゆとりであり、遊びであり、ユーモアであり、茶目っ気です。
つまり、AIとの共生が必須となるこれからの時代において、人間ならではの仕事を生み出し、より豊かに生きていくためには、茶目っ気が必要だ・・・っていう。
朝から長い屁理屈、すみません。
